浪速のスーパーティーチャー守本の授業実践例

第四章 評論

2 「異文化としての子ども」 本田和子

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 ではこの時、砂場には何が起きていたのでしょうか。それを考える前に、まず「子ども」の感覚について考えていきます。

 この評論が収められている『異文化としての子ども』(ちくま学芸文庫)の各章の題には、「べとべと」「ばらばら」「もじゃもじゃ」「わくわく」「ひらひら」というような擬態語が用いられています。擬態語とは、身振りや様子を音で表した語ですから、さわったり、なめたり、跳んだり、跳ねたりしながら、対象を把握する子どもの特徴を章題としているわけです。そこから、筆者の視点が子どもの側にあることがわかります。

 そこで教室では、生徒に「この時砂場で、子どもたちが感じたことを擬態語で表してみよう。」という課題を出してみました。キーワードは「砂場」「雨」です。「ざーざー」は「雨」、「さらさら」は「砂」。「砂」と「雨」に共通するもの、ということで生徒たちは考えていきます。深く考えれば考えるほど、後の気づきの喜びや実感は大きいのですから、ここが肝心なところです。そして、誰かが「ぱらぱら」と答えます。そう、「ぱらぱら」です。周りの子どもたちが砂の掛けあいをしていたために、砂場の子どもたちの頭上から砂が降ってきたのです。そして、砂場の横で子どもたちの様子を記録していた観察者にも、その砂は降りかかったのでしょう。身体に降りかかる「ぱらぱら」から、子どもたちは「雨」を感じ、雨遊びに転じていったのです。

 また、身体で感じ、身体で表現する子どもたちの世界に、観察者もまた何の違和を感じずに同調しているのです。そして、観察者の記録には「砂」のことは残っていないのですから、「ぱらぱら」に身体が無意識に反応していることがわかります。身体で世界を把握するというのは子どもだけのものではなく、大人も身体で世界を感じることができるのです。大人の世界から見れば、子どもの世界は理解しがたい「異文化」ではあるのですが、実は大人は子どもの世界と無関係ではなく、大人はそれを忘れてしまっているのです。

 このように大人の常識では理解できない、非連続に見える子どもの世界について筆者はこうまとめています。ここでいう「私ども」とは、大人のことです。

 私どもは、子どもたちの世界が、非連続に見えて、その実、切れ目もなく連続する不思議なまとまりであることに気づかない。さらに、「ばらばらな断片」としか見えない彼らの言動の、特有の輝きにも盲目である。そして、それ以上に、彼らの言動を「非連続」と見る私どもの視座が、自身の「非連続性の投影」であることに気づきにくいのだ。

 「自身の『非連続性の投影』」というのは、「連続」である子どもの世界が「非連続」としか見えないのは、大人自身が「非連続」であるということです。つまり、「連続」していて整合性があるとする、大人が依拠する常識や因果律(物語)こそが、実は「非連続」であるとしているのです。大人の世界の常識は非常識で、つじつまがあっているとするのは幻想にすぎないという子どもからの問いかけです。

 この子どもと大人の世界の関係は、「理性・意識」という近代の概念に対する、ポストモダンの概念の「身体・無意識」という図式につながっていますが、この場合はポストモダンというより、近代によって得たもの、失ったものという捉え方もできると思います。

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