ちくまの教科書 > 国語通信 > 連載 > 舞姫先生は語る第一回(5/6)

舞姫先生は語る

第一回 『舞姫』のモチーフについて
第二回 太田豊太郎の目覚め
第三回 エリス――悲劇のヒロイン
第四回 太田豊太郎と近代市民生活
第五回 『舞姫』の政治的側面
第六回 結末
鈴原一生(すずはら・かずお)
元愛知県立蒲郡東高等学校教諭

第一回 『舞姫』のモチーフについて
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キスをして上げても好くつて

 築地精養軒で二人の間にはどのような言葉が交わされたのでしょうか。それは『舞姫』の後日譚とも呼べる鴎外の短編『普請中』(一九一〇年発表)の中にあると見ます。

 主人公がドイツで親しくしていた女性と築地精養軒で再会した場面に次のような記述があります。

「キスをして上げても好くつて。」
渡辺はわざとらしく顔を蹙めた。「ここは日本だ。」(中略)
 燈火の海のやうな銀座通を横切つて、ヱエルに深く面を包んだ女を載せた、一輛の寂しい車が芝の方へ駈けて行つた。(「鴎外全集」第七巻 岩波書店)

 「燈火の海のやうな銀座通」何か思い出しませんか。そうです、『舞姫』の中の豊太郎がエリスと出会う直前のウンテル・デン・リンデンの描写にも同じ表現がありました。鴎外は、本当にこのような冷たい態度をエリスに対して取ったのか、それとも演技だったのか。恐らく後者でしょう。とにかくエリスは森家の人々の「努力」の結果、おとなしくドイツへ帰って行きました。喜美子の表現を借りれば、

エリスはおだやかに帰りました。人の言葉の真偽を知るだけの常識にも欠けている、哀れな女の行末をつくづく考えさせられました。(小金井喜美子『森鴎外の系族』岩波文庫)

 エリスを追い返すまでは冷たい態度を取ることができた鴎外でしたが、彼の心の中では大きな変化が起こったのです。初めは「一抹の雲」であったものが、中頃は「腸日ごとに九廻すともいふべき惨痛」となって彼を襲って来たのです。この居ても立ってもいられないほどの痛み、苦しみからの解放が、『舞姫』の第一のモチーフでしょう。これは爆弾のようなもので、抱え込めば自己を破壊する可能性さえあります。吐き出すことで痛みが半減することもあるでしょう。エリスとの間に明確に結婚の約束があったとは断定できませんが、少なくとも自己の青春を完結させるものとして彼はそれを必要としたでしょう。

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