澤地久枝
( さわち・ひさえ )澤地久枝(さわち・ひさえ):1930年、東京生まれ。その後、家族と共に満洲に渡る。ノンフィクション作家。1949年中央公論社に入社。在社中に早稲田大学第二文学部を卒業。著書に『妻たちの二・二六事件』『火はわが胸中にあり』『14歳〈フォーティーン〉』『昭和とわたし』など多数。『滄海よ眠れ』『記録ミッドウェー海戦』でミッドウェー海戦を克明に跡づけるとともに、日米の戦死者を掘り起こした功績により菊池寛賞受賞。2008年朝日賞受賞。
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1942年6月のミッドウェー海戦は、日本がアメリカに大敗を喫し、太平洋戦争の転換点となった海戦である。この海戦の取材は著者の予想を越えて、約7年に及ぶ壮大なプロジェクトとなった。日米双方の戦死者を調査し、戦闘経過を史料から跡付け、敗戦原因の定説であった「運命の5分間」に異を唱えることとなったのだ。本書は、ときにミッドウェー島へ赴き、日本側3056名、アメリカ側362名の戦死者の生年、所属階級、家族構成などをあらゆる手をつくして突き止め、手紙やインタビュー等を通じて戦死者とその家族の声を拾い上げた圧巻の記録である。「彼らかく生き、かく戦えり」。全名簿と統計を付した第一級の資料。
第1部 彼らかく生き かく戦えり
第2部 戦死者と家族の声(日本側
米国側)
第3部 戦闘詳報・経過概要(抜粋)(経過概要(日本)
米国側戦闘経過 ほか)
第4部 戦死者名簿(日本側
米国側)
第5部 死者の数値が示すミッドウェー海戦(全戦死者および搭乗員
士官・下士官・兵の戦死 ほか)
2023年6月10日発行の澤地久枝著『記録 ミッドウェー海戦』(ちくま学芸文庫)第1刷に誤りがありました。下記の通り訂正し、お詫び申し上げます。
12ページ・16行目
【誤】全戦死者三千四百十九名
【正】全戦死者三千四百十八名
●関正季 没年19歳7カ月「弟はみんなに好かれる子供でした。小学校四、五年の頃から、その頃は薪で御飯を炊いていましたので、毎日必ず、夜寝る前に、かまどの前の掃除と、脱ぎすてになっている下駄をきちんと揃えていました。」(姉・関サキ)
●渡辺克美 没年17歳2カ月「カッちゃんという愛称でよばれていた。海軍への志願に両親は反対だったが、印鑑を盗み出して願書を出した。」(兄・渡辺留雄)
●照井伝治郎 没年22歳11カ月「少し見栄っ張りのところもあったが、物事に積極的で頭のきれる将来を嘱望された人だったそうです。パイロット志願だったが、視力の関係でそれはかなわなかったが、それでも海軍に配属されて非常に喜んでいたそうです。(中略)
戦後、昭和五十二年に、ミッドウェー海戦に参加し、生きて帰った当時の同僚の方々が訪れ、彼の死亡時の詳細を知った。国家のため戦争に行かなければならない。しかし留守宅の父母・弟妹の生活の不安を考え、彼の心の中は複雑であったに違いない。どんなことがあっても生きて帰らなければならないと彼は決心していたと思われる。重度の火傷を負ったため喉が渇き、『サイダーを飲みたい』と何回も要求し、おいしそうに飲んだが、あまり飲ませると死期が早まるため、多くは与えられなかったそうです。意識が朦朧とした状態でも、彼の脳裏には自分の生い立ち、一家の今後の生活等々が駆けめぐったと思われる。彼は『可愛い妹(ヤエノのこと)が迎えにくる。一緒に家に帰る。妹の足音が聞こえる。そこまで来た』と言って息を引きとったそうです。彼の命日には、彼がもっともっと飲みたかったであろうサイダーを彼のお墓にかけ、旅半ばにして夭折した無念の気持を慰め、今後二度とこのようなことが起こらないよう平和への決意を新たにしている」(妹・ヤエノの長男・照井薫)
●竹田繁雄 没年25歳1カ月「真面目で大変優しい兄でした。十歳の年の差のある私がみじめな思いをしないようにと、乏しいお給料から洋服とか学用品をよく送ってくれました。当時小学生も四年生にはお裁縫を習っていましたが、お裁縫箱からヘラにいたるまで揃えてくれ、そのお裁縫箱はボロになっていますが、持っています。
一年に二度休暇で帰省しても、私を自転車に乗せてよく遊んでくれるとても優しい兄を覚えています。よく母にも言っていました。苦しくても辛抱してね、そのうち佐世保で、みんないっしょに暮そうねと」(妹・竹田ミエ子)
●ロナルド・ジョセフ・フィッシャー FISHER, Ronald Joseph 没年20歳7カ月「とてもハンサムだった。(中略)彼のニックネームはロニー。父親が海軍にいる友達がいっしょに入隊しようと誘った。あの子は戦争など予期していなかった。でも大好きなラジオの仕事につく願ってもないチャンスだった。」(母・レオタ・フィッシャー)
●ジョン・ホール・ベーツ BATES, John Hall 没年23歳4カ月「私は高校二年の時初めてジョンと知り合いました。彼は三年生でした。ジョンは大変に真面目で静かな、そして優秀な生徒でしたが、孤独な感じの人でした。ですから彼が恥しそうに私をデートに誘ったときは驚いたものです。彼は町はずれの線路ぞいにある大きな農場に住んでいて、たしかお母さんはすでに亡く、叔父さんと住んでいたと思います。当時、ジョンは車を持つ数人の生徒の一人で、彼の運転するピックアップ・トラックからはいつも農場のにおいがしていたものです。
高校時代、ジョンに他にデートするような女性がいたかどうか知りませんが、恥しがり屋のジョンのことですから多分いなかったと思います。私のことは本気だったのです。私は彼を好きだし尊敬もしていましたが、それに応えてあげることはできなかったのです。彼のいつもひとりぼっちなところが気の毒だと思っていました。
最後に会ったのは一九四〇年夏でした。私は大学二年生を終え、シカゴの大きな病院で働いていました。私に会いに来たジョンは再び結婚の話をしました。しかし、その時私はすでに婚約をしており、二、三カ月後に結婚することになっていたのです。それは、なんというか、苦く甘い別れでした。私はジョンのことを長い間、何度も思いだし、もっといろんなことが出来たはずの若者を失ってしまったことに痛恨の念を覚えたものです」(高校時代の恋人・キャサリン・ウィルソン・ベーカーからのコメント) (第二部 戦死者と家族の声 より)
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